マイヒストリー

どん底の浪人から価値観が変わった大学生活【下山浩幸My history#3】

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今回は、大学受験に失敗した暗黒時代から楽しい大学生活。

価値観を大きく変えるような出来事に何度もあり、現在の人格が形成された時期だと思います。

世界に出ていくことで、「外国人と対等」「どこに出て行っても自分を貫く」と言う意識もこの時期に作られました。

 

この記事では、私、下山浩幸がどんな人間なのか知って頂きたく、恥ずかしながら、自分の過去をさらけ出しています。

コンサルタントや起業塾の先生という偉そうな仕事をさせて頂いておりますが、なぜそのような仕事を目指すことになったかなども含めまして、包み隠さず、お伝えできればと思います。

 

 

バスケのスター?からどん底へ

高校時代には、バスケットで人気者になれましたが、良いことばかりではありませんでした。

バスケ中心の高校生活を送ったため大学受験は志望校に受かりませんでした。
地方の国立大学には受かりましたが、「希望大学ではない」とわがままを言って浪人させてもらいました。

両親に感謝しています。

その当時は浪人してからが本格的な受験勉強開始!みたいな雰囲気もあり、受験競争が激化し、進学校では浪人をして気暴行を目指すのが当たり前になっていました。

 

国立大学を合格しての浪人ですから

自分が親の立場になってみると

なんて贅沢な金食い虫だと思います(笑)

 

浪人が当然の雰囲気だとは言え、自宅に居るとそういう訳にもいきません。

「受験」「浪人」などは、勉強などまともにしたことがない父親には全く理解されず、思春期も重なり、酒癖の悪い父とは一切話をしなくなりました。

浪人の1年間。
夜中まで勉強、模試の結果に一喜一憂するプレッシャーの続く、真っ暗な日々でした。

それでも何とか苦しい状況から抜け出して、中央大学理工学部精密機械工学科に入学することができました。

 

衝撃的な大学生活で価値観が変わった

中央大学では、理工学部なのでレポートも多いため勉強も遅くまで頑張りましたが、遊びとバスケも頑張りました。

春夏の合宿はきつい練習とビールケースを持ち込むようなキツイ飲み会でしたが、女子チームと合同練習もあり青春していました。

 

ちなみに、当時の中央大学の体育会系バスケ部には、一つ下にバスケ界のスター佐古賢一がプレーしていて全国優勝の黄金期でした。
同じ大学のバスケ部ですが、理工学部の部活とはレベルが違い過ぎて、一度も一緒にしたことはありません。

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ミスターバスケットと言われた佐古選手選手。この本も買いました↑
(アフィリじゃないですよ)

 

さらに余談ですが、俳優の阿部寛も同じ大学に居て、当時はメンズノンノでデビューしたばかり。
何度もエレベーターで一緒になったり、食堂とかで顔をみましたが、残念ながら友達にはなってないです。

メンズノンノ時代の阿部寛 さん

大学生の頃のメンズノンノで活躍していた阿部寛さん。
めちゃくちゃ背が高くて、177㎝の私でも見上げたので、顎ばかり目が行ってしまいました(笑)

 

バスケと飲み会だけで大学生活が終わってしまえば、普通の大学生だったでしょう。
大学で一人の変人(変な友人)との出会いが私を変えました!

彼はとにかく行動派
私は頭で色々と考えるタイプでした。

例えばこんな感じです

ある日、私は悩んでいました。「自転車で今度のバスケの合宿に行ったら面白いかな?でも、野辺山だと標高高いし1日じゃは知れないな。足を痛めたらバスケ合宿も影響する…」

こんな私に対して
「おめえ、そんなこと言ってねえでやってみたら分かるんだよ!」こんな感じです。

で、どうなったか?と言いますと
彼と二人で野辺山まで自転車で行き、バスケ合宿にもちゃんと参加しました。

 

ある時は「アメリカをバスで横断したら面白そうだな〜。でも、ニューヨークとか超怖いし、バスって貧乏人の移動手段で危ないなあ」とつぶやくと「行きゃ分かるんだよ!」って感じです。

実際に、彼とはアメリカに2か月行きました。
とは言え、最初の2、3日のNYと、最後の数日のサンフランシスコからLAまでのレンタカードライブだけで、あとは完全別行動でした。

 

青春時代の2か月のアメリカ横断旅行は、今でも忘れられない貴重な経験が沢山あります。
この話をしだすと長くなりますので、またの機会に…

実際は書けないことが多いです(笑)

彼の行動重視の姿勢に背中を思いっきり押され(いや、ぶん殴られ)、頭でっかちの私は良い方向に自分を変えることが出来ました。

 

 

私の世界進出時代

「世界進出」は大げさですが、大学時代(1990年前後)はバックパック一つ担いで世界中を旅するバックパッカーが流行していました。

バックパッカーの本を読んでは、次はどこに行きたい。
山の本を読んでは、次はどこに登りたい

年間100日近くはバックパックを担いでいました。

色々なものを体験したいという原動力で、大学、バスケ、遊びの合間にバイトをしていました。

 

お金をどうしたのかと言えば、渋谷にある建築事務所(基礎工事の会社北辰工業)でアルバイトをさせて頂き、大変良くして頂きました。

大学生の身分で基礎工事の鉄筋やコンクリートの計算など理科系らしい働きをして、図面を持って現場に行くこともありました。ちょっとした社会勉強ができました。

バイト代も良くて、待遇も良く、本当に感謝しています。

アルバイトで貯めたお金で、春休みの長期休暇に海外へ飛びました。

大学時代の長期渡航先
・アメリカをバスで横断(NY~フロリダ~ニューオーリンズ~サンフランシスコ~LA)
・ネパールトレッキング
・ニュージーランドトレッキング
いずれも1か月〜2か月の貧乏旅行です。

バイトでお金を貯めたとは言え、長期の旅なので、しっかりご飯を食べるお金がありませんでした。
バスの中でポテチとコーラで一日の食事を済ますことも多かったです。
(この影響か?50歳を過ぎてもポテチはやめられません…)

グレイハウンド : CARTERのブログ

旅先で様々な国の人と知り合い、色々な人と交流して、本当に楽しい経験でした。
旅先で出会った沢山の人にもお世話になりました!

この旅の経験から世界に出ても引け目に感じることがなくなり堂々と出来るようになりました。
社会人になって外国人と仕事をしたり、海外出張をしたりしても、一切引かずに交渉ができたのは、この時の経験が大きいです。

バスケットと旅は、ビジネスで成功する土台を作ってくれた欠かせない要素です。

 

 

入社あいさつで辞める発言⁉

刺激的だった大学生活が終わっても、波乱万丈の展開が私を待っていました。

バブル末期の1991年、第一志望の株式会社アシックス入社
志望理由は「自分一人でひとつのモノづくりができそうな企業」という理由でした。

当時の理工学部卒業生には、大手機械メーカーや自動車などが人気の就職先でした。
しかし私は、規模が大きすぎる会社では歯車の一つで終わりそうな気がしたのです。

「ひとつの部品担当だけで一生終わるような仕事はイヤ。全体をコントロールしたい。社長にもなりたい!」という生意気な気持ちで、当時の流行りの重工業や自動車、電気は避けました。

 

アシックスを選んだ理由は、バスケットをはじめとしたスポーツが大好きだったこと。
そしてスポーツ企業でアシックスだけが自社の研究所を持ち、本気で科学的に取り組んでいたからです。

私の希望は、アシックスのスポーツ工学研究所でした。

アシックスの DX 改革―走りを可視化する

3月中旬に男女合わせて50名ほどが入社し、2週間ほど研修施設で泊まり込み研修を行いました。

今ではあまりないと思いますが、the体育会系という内容で、朝は走って体操をして、社歌斉唱だったりマナー教育があったりと盛りだくさんで大変でした。

今思えば、この時に学んだことも多く、使い物になるかならないか分からない新入社員に、これほど投資してくれた鬼塚会長や会社幹部には大変感謝しています。

研修最終日の配属発表前に、「この中で一人だけ韓国に飛ばされる」という噂が同期の中で広まりました。

スポーツ工学研究所志望の理系人間ですから「俺は関係ない」と勝手に思っていました。

しかし!
最初の配属で見事に海外要員に指名され、大きなショックを受けました。
「え~、研究させてくれないの〜」

茫然自失です。

 

直後の上司との面談では「君は直ぐに中国に行くから、いつでも行けるように準備して!」と言われて、韓国ではなく中国駐在に向けて準備をすることになりました。

 

1990年代初期の中国です。
メールもインターネットもない時代、食事や住環境も現在では考えられないくらいのひどい環境でした。

第一志望の企業には入れたものの、すっかり落ち込んでいました…

「直ぐ中国」と言われたショックのあまり、最初の挨拶で「直ぐに居なくなりますが、よろしくお願いします」と言ってしまいました。

この発言により「あの子、もう辞めるのかしら?」と心配されたそうです。

伝説の「配属挨拶で辞める発言」です(笑)

そんな発言をしましたが

20年間しっかり働きましたよ~

 

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